ベリー ベリー ストロベリー 〜その1捻挫の一件以来、僕と亜季さんは仕事先から一緒に帰ることが増えた。
最初はもちろん、彼女の足の具合が気になってのことだったが、
捻挫が治ってからも、なんとなくその習慣は続いた。
車を使ったときだけでなく、電車であっても、
時折僕は亜季さんの住む街の駅で途中下車し、
「最近なにかと物騒だから」と言い訳をしては、彼女を送っていこうとした。
しかし、亜季さんは、通り道にしている井の頭公園を抜けてしまうと
いつもそこで「もう大丈夫だから」と、手を振る。
そのたび僕は胸の奥が痛くなり、その痛みを誤魔化すように煙草に火を付け、
苦い煙を吸い込みながら、足早に去っていく彼女を見送るのだった。
二人の仕事がいつもより早めに終わったある日の夕方、
久しぶりに亜季さんと一緒に帰りの電車に乗った。
晴れた日は、夕暮れも遅く感じられる。
茜色に染まった空を、電車の車窓ごしに眺めながら、
「ねえ、今日、井の頭公園でお茶していかない?」と亜季さんが言う。
もちろん僕は頷き、電車を降りる彼女の後に続いた。
彼女の言う「井の頭公園でお茶」というのは、
公園のそばのカフェではなく、本当に井の頭公園のことだった。
亜季さんはまず、テイクアウトのコーヒーを買い、
それから何も言わずにサーティーワンに入っていった。
「テイクアウトで、ベリーベリーストロベリーを一つと……堀井ちゃんは?」
「ベリーベリーストロベリーをもう一つ」
店員に持ち帰りの時間を聞かれた彼女は、ちょっと迷って
「1時間くらい」と答えた。
あと1時間。それが井の頭公園で「お茶をする」時間ということだ。
長いのか短いのかよくわからないけれど。
初夏の井の頭公園は若葉の匂いがした。
「イチゴの季節も終わっちゃったね」と亜季さんが唐突に言う。
池のほとりのベンチに並んで腰掛け、コーヒーを飲む僕たちは
他人の目にどう映るのだろう。
恋人にしては距離があり、仕事の仲間と言い切るには
いくらか近しい間柄。
手を伸ばせば触れ合える距離にいるのに、その距離を今以上に縮めるのは
二人にとってひどく難しいことのように思えた。
コーヒーを半分ほど飲んだとき、亜季さんの携帯が鳴った。
「出れば?」
「……うん、でもメールだから」
そう言いながら文面を確認する彼女の瞳に、暗い影が差したような気がした。
僕は思いきって聞いてみる。
「ねぇ、今のメール、彼氏?」
彼女は答えず、池の向こう側を見つめている。
あたりは暗くなり始め、池のほとりに集められたボートが風にあおられて、
ガタゴトと音を立てた。
ふいに彼女が口を開いた。
「向こうがほかに好きな人ができたって言い出して、
こっちはさんざん泣いて、やっと忘れたのに、
今頃になって何もなかったみたいにメールだなんて。
どうして男の人って、こんな残酷なことができるの?」
彼女の問いかけに、気の利いた受け答えを思いつけるはずもなく、
僕は黙ってコーヒーを啜った。
そんな僕に苛立つように、亜季さんは言葉を続けた。
「ドライブに行こうって書いてあった」
「……行くの?」
「誰が行くかっつうの。都合よすぎるじゃない? そんなの」
啖呵を切ったつもりなんだろうけど、その声はいつもより元気がない。
僕は知っている。この人は自分の本音をうまく表に出すことができない。
自分の心を隠すために、いつも僕らに調子を合わせてはいるけど、
本当はひどく頑なで、そのくせ脆い。
おまけに目を離したら倒れてしまうんじゃないかと思えるくらい頼りない。
だから僕だけは目を離さないでいようと思っていた。
でもだからといって、あのとき亜季さんが階段を踏み外して、
物理的に、現実的に、倒れてしまうとは思いも寄らなかったけど。
ベンチから立ち上がって家に向かおうとする彼女の後を追いながら、
僕はずっと思っていたことを口にしてみる。
「その彼氏が亜季さんを忘れられなかったのはさ、
亜季さんがいい女だからじゃないの」
振り向いた亜季さんの表情には力がなく、
それでも僕を睨もうとしているのだけはわかった。
「何それ。慰めのつもり?
ぜんぜん堀井ちゃんらしくないし、嘘っぽい」
それだけ言うと亜季さんはまた黙り込み、すたすたと歩き出す。
どうやら僕は失敗したらしい。
いつの間にか僕たちは井の頭公園を通り抜けてしまった。
いつもはここで「もう大丈夫だから」と言い、
僕を帰らせる亜季さんも、今日はその言葉さえ忘れている。
「ねえ亜季さん」
もう一度呼びかけると、彼女は黙ったまま僕のほうを振り向いた。
「嘘じゃないよ。俺、ずっと亜季さんのこといい女だと思ってた。
でもさ、忘れなよ。そんな奴のこと」
亜季さんの瞳がみるみるうちに潤んでゆく。
初めて見る彼女のそんな表情がたまらなく愛おしくなって、
僕は思わず亜季さんを捕まえ、抱き寄せてしまう。
「見ないで」と言って彼女は下を向いた。
「どうして」
「なんだか涙が出そうだから」
「見せてよ」
「やだ。かっこ悪いもの」
「かっこ悪い亜季さんが見たい」
「…… ヘンタイ」
亜季さんは顔を上げ、目の端っこに涙を浮かべながら微笑んだ。
「ヘンタイかぁ。せめて意地悪って言って欲しかったんだけど」
僕はそう言って、彼女の涙を唇でぬぐう。
「ウサギなんじゃなかったの?」
「ウサギだってキスくらいするよ」
それから僕らはどのくらい抱き合っていたのだろう。
唇を寄せ合い、舌で探り、お互いの目を見つめては、
一瞬離れたその距離がもどかしくなり、また求め合う。
そんなことを何度も繰り返した。
いつの間にか漂う甘い香り。
亜季さんの柔らかな唇に触れながら、その香りを吸い込むのは心地よかった。
だけど、いくら気分が昂揚しているからって、この露骨な甘い香りは何なんだ?
「アイス、溶けちゃったんじゃないの?」
「そうかも」
ごめん、と僕は言ってみたけど、もちろん彼女は怒ってはいない。
「明日また買いに行こう。一緒に」
亜季さんは、うん、と頷く。
彼女の手を取り家に向かう道を歩きながら、
そのバニラとイチゴの混じり合った甘い香りに、
もう少しの間、包まれていたいと思った。
※このストーリーはフィクションです